AT EASE代表 長畑 佐代子のオフィシャルブログ

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16世紀の日本が興奮した
宣教師の話は続きます。

フランシスコ・ザビエルをはじめ すべての宣教師の言うことによると
当時16世紀では この世界で日本人ほど質問好きな国民はいなかったそうですよ。

ザビエルは 日本に派遣する宣教師は 特に深い教養が必要だと手紙に書いています。

「神父はよき哲学者であることが望ましい。
日本人との討論において、その矛盾を指摘するために 弁証法を知っていると、なおけっこう。
それから 宇宙の現象のことも知っているとますます都合がよい。
なぜなら日本人は 天体の運行や、日蝕や、月の満ち欠けの理由などを
熱心に聞くからである。
また 雨の水はどこから生じるのかをはじめ
雪やあられ、彗星、雷鳴、稲妻など万般の自然現象の説明は、民衆の心を大いにひきつける。」

16世紀といえば 
1543年 コペルニクスが地動説を公にし(種子島に鉄砲が来た翌年)
1564年 コペルニクスの地動説を擁護したガリレオが生まれ
1585年 ガリレオがピサの斜塔で重力を発見

アリストテレスからガリレオ、ニュートンへと移行する
過渡期の知識が 宣教師によって日本にもたらされたのです。

1590年 日本のコレジオの教科書になった 「二儀略説」に
当時の日本人が知りたかったことがたっくさん書いてある。

たとえば

日蝕月蝕の説明では

「太陽とわれわれの間に介在する 月が 地球と太陽の中間に位置するとき
また太陽が地球の影を月に落とす時」

四季の説明では

「世界の構成要素は 四つの元素であり、その混合によって万物が生じるが
その作用はすべて天体に依存している。
太陽と月が光と運動によって下界に影響を与える。
太陽がその光線で地に熱を生じ、すべてに生命を与える。
太陽の光線が直接注がれるとき、春、夏が生じる」


今月21日に 金環日蝕がありますね。

そして影響を与える太陽が 今暴れん坊の時期に入ったので
地球は 大雨や大風 巨大台風や竜巻という
ものすごくドラマチックな状態に入っているというわけです。

この時代に イエズス会の宣教師に接していたら
絶対私は 心酔しているだろうな。

だって 世の中は悲惨な戦国時代
戦争戦争で、農民は田んぼも耕せず
民衆は貧困と飢餓と絶望の中にいました。

高い教養を持ち 貧民を 差別なく救済する宣教師たちが
どんなに崇高に見えたことだろう。

日本で初めての病院は この時代 宣教師によってつくられたのです。

苦しい民衆を救わねばならない仏教も
仏教同士の争いで 最下層の人たちの救いにはならなかった時代。

あっという間に 宣教師の回った九州でキリスト教がすごい勢いで
広まったわけですね。


私の興味は ちりじりに散っているようですが
縄文から 神話  民話 ユダヤ キリスト教 隠れキリシタンと
実は 私の中ではすべて繋がっているので ごめんなさい。
そのうち ちゃんと つなげますので。

読んでくださっているみなさん
ありがとうございます。











     
思い出してみて
前回につづきます。

 青春時代に 私たちは 私たちの未来を
「願望」という形でみているはずです。

なぜなら 願望は 未来への予感だから。

私はどう生きたらいいのだろうか。
私は何をしたいのだろうか。

分からなくなっている人は 思い出してみてください。

若いころ
どんな自分を思い描いていたか。
あるいは
どんな夢をみていたか。

未来は現実の中に つねに秘められているので
予感することは可能です。

私には 幼いころからの「こうありたい」という
願望がありました。
今にしてみれば とても観念的なものです。
しかし、幼いながらも そのイメージはひどく明確で
なぜそんなことを思ったのか ずっとわからなかった。
思うというよりも 「こうなるはずだ」というかんじ。

まだ その過程ではありますが
どうやら その道を進んでいるという実感はあります。
今の私の道は 幼いころに「こうありたい」という姿に近づくための
ものなのです。

最終的な願望は 死ぬ時に成就するのかもしれない。

でも その手前の
小さな願望は 次々実現されています。

願望は実現する。
と疑いなく信じることで
自分の力(可能性)は引き出されるはず。

私はそう信じています。










「願望」と「欲」はまったく違う
 前回は「欲」でした。

では 願望とは。

願望は可能性の予知だと思います。
願いは 自分自身の内部から湧き上がってくるもの。
自分の未来に成就されるものだからこそ
「願望」という形で現れるのではないでしょうか。

ゲーテは
「われわれの願いは われわれのうちにある可能性の予感であり
われわれがなしうるであろうことの先触れである」

と述べています。


さらに

「われわれがなしうること、われわれがしたいと思うことは
われわれの外に また 未来にあるものとして
想像力の中にあらわれる。
われわれは すでにひそかに持っているものに
憧憬を感じているのである。
こうして情熱をこめて未来を先取りすることによって
本当に可能なものが夢想された現実と化す。」

私もゲーテの言葉に まったく同意です。

情熱をもって 強く強く願うことによって
自分の可能性を引き出す。

可能性が無ければ 人は想像すらできない。



美しい地球 「太陽柱」現象
太陽柱 







大気光学現象の一種であり、日出または日没時に太陽から地平線に対して垂直方向へ炎のような形の光芒が見られる現象を言う。













美しい地球
美しく、不思議な地球の姿

アメリカ イリノイ州 虹の雲



スペイン領 カナリア諸島



ノルウェー オーロラ

欲とは
 「欲」

「欠」は 「あくび」とも読み
口を大きく開けた状態。

「谷」は「容」に通じ 多くのものを取り入れる意。
谷は 多量のものを収められる自然の器です。

いくら呑み込んでも 呑み込んでも 飽くことを知らないほど
大きく口を開けた状態が「欲」

想像するだけで なんだか醜くて気持ち悪い。

ゲーテのファウストの中に こんなセリフが。

「われわれがいちばん手痛い思いをするのは
豊かさの中にありながら、自分に欠けているものを感じるときだ。
あの鐘の音、あの菩提樹の花の香りは
私を墓穴のなかにいるような気持ちにさせる。
何事も思い通りにせずにはおかない権力者も
あの丘の砂にはかなわない。
どうしたらこの惨めな思いをなくせよう。
あの鐘が鳴る。気が狂いそうだ。」


ファウストは すべての欲望をかなえてくれるという
メフィストフェレス(悪魔)と契約を結び
あらゆる欲望を満足させて
絶世の美女や地位を手に入れることに成功します。
それなのに
菩提樹に囲まれた 見晴らしのよい丘に
古い礼拝堂がある 老夫婦の土地が欲しくてたまらない。

あらゆるものを持っているはずのファウストが
最後に欲しがったのは 丘の上のわずかな土地。

ファウストは老夫婦を立ち退かせて
土地をわがものにしようとするのですが
いっこうに埒があかない。

巨万の富を手にした強欲な人間ほど
心は不満でいっぱいなのです。

そこで 上のセリフ。

老夫婦は脅迫まがいの追立に動転して
その衝撃で亡くなります。
ファウストの願望は成就しました。

欲望の成就には 他人の犠牲が伴うということでした。






神戸の旅 オルガンも
神戸では オルガンの見学もしました。



前日のコンサートでご縁をいただいた 演奏者の方のツテで

見せていただけることに!

しかも 夫は 演奏の機会も今後与えていただけるという。

感謝。



バッハコレギウムジャパンが CDの録音に使う場所。

神戸松陰女子大学のチャペルです。



こちらには ガルニエの 素晴らしいオルガンが入っています。









このチャペルは 内部が石造りで

響きが素晴らしい!!!

日本で聴くオルガンではない!

大興奮です。



このチャペルでのオルガンは 音浴。という感じがする。

セロ弾きのゴーシュの チェロが 動物を癒す力を持っていたように

パイプオルガンにも 体の細胞を活性化する力が

他の楽器以上にある!と私はずっと感じていますが

ここで オルガン演奏を聴くと

すごい!



体中の細胞が震えます。



神戸在住の方。

こちらではコンサートがたくさんありますので

是非 オルガンの音色を聴いてみてはいかがでしょうか。



私は 東京のサントリーホールや新宿オペラシティのオルガンよりも

すごい響きだと思います。



あと

神戸で 非常に面白かった場所は

栄町通り。

ここは 古いビルがいっぱい残っていて

そのビルに 雑貨のお店が たくさんある。

まるで 台湾とか韓国の裏通りの感じ。







その雑貨屋さんも みんなすごい個性的なんだな









なんと、その雑貨屋!さんで

夫がずっと探していた キリスト教関係の古ーい文献が見つかるという

サプライズもありました。





英語やラテン語の古書の山。

いったい誰が こんなところまで宗教書を買いにくるというのだ。



雑貨と宗教書、不思議すぎる。しかもその値段はそこそこに高い。



その数が また 半端ない。天井高く積み上げられた古い洋書たち。



こういう雑多なわけのわかんないものたちに囲まれると

本当にわくわくしちゃうんだな。





そして もう一つの感動は、こちら。

ミシュラン一つ星の「栄ゐ田」さん。





そこで出会った 日本酒。





シャンパングラスで冷酒。

こちらの日本酒は めちゃめちゃすごい取り揃えでした。

私たちはあまり 日本酒をいただきませんが

ここの日本酒は 店主こだわりだけあって 旨い。

日本酒苦手の夫も 感動していました。



神戸 好きになったぞ。



コーヒーも パンも 魚も お肉も 雑貨も 私の中で◎。





キリシタンの旅 長崎から神戸に続く
神話 民話の「語り」から続き
長崎では、隠れキリシタンの 口伝とオラショへ。

そして今回の旅は
宣教師から受け継ぐ 文化へ。
神戸市立博物館「南蛮美術の光と影」を観に。



日曜美術館で 「泰西王侯騎馬図屏風」を知り
今回の展覧会で 30年ぶりに 二つの屏風が揃うというので、
神戸まで来ました。

イエズス会のセミナリヨと呼ばれる
日本の少年たちへの 教育機関。
ここは 神学や美術、音楽だけでなく 様々な学問の場。
セミナリヨで学んだ 日本人が
南蛮絵と呼ばれる
日本画の顔料を使った 西洋画を描いていました。

17世紀当時 日本では見られなかった 遠近法や陰影のある絵。

今回の屏風も 金箔が貼られた 迫力のあるもので
縦178センチ 横486センチの大型屏風です。
そこに描かれたのは 8人の王侯。

フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教。
信長も積極的に 宣教師たちを受け入れ
当時は 「南蛮」というモチーフが大流行して
武士たちも刀のツカに南蛮を取り入れたり、工芸にも南蛮風のものが
たくさん取り入れられました。



ザビエルは 誰でも知っている宣教師です。

ところが 秀吉の時代 キリスト教は大弾圧を受けました。
先日の長崎では 痛ましい26聖人の殉教の丘で
当時の殉教者に思いを馳せました。

今回の南蛮絵。
迫力のある 面白い構図です。
こんな興味深い 南蛮絵を描く技術を持った人たちも
弾圧後は その技術を伝えるすべを持たなかったのです。
本当にもったいない。

なにしろ キリシタンの要素は すべて徹底的に排除されたわけなので
グレゴリオ聖歌を歌う技術も
西洋画の技術も
伝承はできなかった。

完全に途絶えてしまう技術。
セミナリヨで、こんな素晴らしい教育を受けてきたのに
悲しいことです。
南蛮絵を描いていた人たちが 日本画に軌道修正していく様子も
痛ましいと感じました。

そして
今回の展覧会のもう一つの目玉は コンサート。
ザビエルの足跡をたどった 古楽器と合唱。

ザビエルは ナバラ王国の貴族として生まれます。
ヴェネチアのサンマルコ大聖堂司祭を経て
ローマで「イエズス会」を立ち上げ
ポルトガル領ゴアへの派遣
1554年鹿児島到着
中国四川省で46歳で亡くなるまでの足跡に沿った音楽。

ザビエルが生まれた ナバラ王国(スペイン)の当時の歌から始まり
天正少年使節が 日本に帰国して
秀吉の前で 披露したであろう歌まで。

神戸市立博物館の 玄関ホールは 石造りで大変響くので
まるで 教会の中で聴いているようでした。



一心同体の愛
 愛とは

かつては一心同体であったものが
別れ別れとなり
それらが再び 一体となろうとすること。

その昔
人間には 男と女のほかに
男女両性をあわせもつ「男女」がいた。
これら三種類の人間は すべて 球の形をしていて
手足をそれぞれ四本ずつ 顔を二つ持っていて
ふたりの人間が背中合わせにされたような恰好をしていた。

つまり「男男」と「女女」と「男女」の
三種類の人間がいた。
その心は 傲慢で 神々にはむかうようになった。
そこで神は相談して
人間をまっぷたつに切断した。

こうすれば 四本足で駆け回っていたときより
力が弱くなると考えたからである。
それでも傍若無人な振る舞いをつづけるようなら
さらに半分に切断して
一本足でぴょんぴょん飛び跳ねながら歩かなければ
ならないようにしようと決めた。

幸いそういう事態にはいたらなかったが
切断された人間の片割れはかつて自分の半身を求めるようになった。
かつて「男男」あるいは「女女」であった者は同性を求め
「男女」であったものは、異性を求めた。

そして 求める半身に出会ったものは
わずかな間でさえ 離れていることができず
生涯 いっしょにいたいと思うようになる。
このような欲求は完全なものを求める欲求であって
これにつけられた名前が 「エロス」である。


プラトンより。
魅力を感じる人
私が魅力的だな、と感じる人はどういう人だろう。


そんなことを考えて想像してみた。



魅力を感じる人すべての 人生を細かく聞いてきたわけではありませんが



おそらく



激情というものに身を置いたことがある人。
なのではないか、と推測しています。

激情とは?





誰かを一途に 死ぬほど好きになった





というだけでなく



誰かを 「いっそ死んでくれ」と思うほど徹底的に憎んだ
そしてそんな自分を抹殺したいほど 後悔した





あるいは 重い病で こんなことなら死んでしまいたいと願った





こんな過激な激しい感情に苦しめられた経験がある人。




そんな人に おそらく私は惹かれるのだと思います。





それは とりもなおさず 自分自身でもあるわけなのでしょうが。





激情を経験して
それを乗り越えてきた人を 私は美しいと感じます。




穏やかで 幸せに見える人なのに
実は 激烈な人生を歩んできた人は
笑顔の後ろに ものすごく強い意志の影が見えるから。



今 ひどく苦しい状況の中で



人を憎んでいたり



死ぬほど誰かを恋していたり(その恋が叶わないとしても)



自分自身を抹殺したいほど嫌いであったり






そうであっても



その感情は いつか昇華できる。





昇華するには けなげな努力が必要だけど。





そして



そんな激情を経験した人の顔は すごく美しい。





眠れないほど苦しい恋愛
死んでしまったほうが楽なのではないかと思うくらい、誰かを好きになること






そういう経験をしていない人はすごく残念だと思う。



どんなに傷ついても
そういう激情に身を任せると
人は 何かしら きりっとした 強いオーラをまとうようになるから。






ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」の中で



ヴェルテルが 婚約者のあるロッテに初めて会って 有頂天になる記述




「太陽や月や星は 以前とかわりなく運行しているが
ぼくには 昼と夜との区別もつかなくなってしまった。
ぼくのまわりからすべての世界が消えうせた」





ヴェルテルには もはや ロッテ以外の何物も目に映らなくなったわけですね。






激情的な恋愛を経験した人は これが誇張ではないことがわかる。




条件を入れた恋愛や結婚を選択するのは


本当に残念。



激情は若さの特権。
激しく悩むことも苦しむことも 人生を謳歌するには必須かもしれない。
穏やかな平和は 激情の後にくると思うから。

風邪をひいて 簡単にお薬を飲んだり
安易に注射を受けたり
予防のワクチンを うったり
自分の治癒力を信じないと
生きる力も弱まって

激情というエネルギーが生まれない気がします。

苦しむより 何もないほうがいい?
いいえ
うんと 苦しむと ますます幸せになると思うけどな。